プロブロガーふじさわの生き様に『ガッツリ』向き合ってくれる方のための、25分かけて読むプロフィール。

僕のプロフィールページへようこそ!

このページは
「サクッとプロフィールでも読んでみようか」
という方に向けては作られていません。

というのも、今までサクッと読んでもらえるプロフィールにしてたんですが、どうも僕の本当の伝えたいことというか、人間性の確信まで伝えきれてないなぁと思ったので、せっかくこのページに来てくれたひとと
本気で向き合うつもりで僕の人生の全てを詰め込みました。

といっても、とりあえずは「サクッと」の部分も用意してますので、
サクッと知りたい方はそこをどうぞ。

僕の生き様にガッツリ向き合ってくれる方は、さらに読み進めてください。

では「サクッと」プロフィールからどうぞ!

▶︎ふじさわのサクッとプロフィール

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▶︎藤沢篤(ふじさわあつし)
▶︎1987年9月10日生まれ
▶︎高知県出身 20歳で上京。神奈川県在住
▶︎26歳の誕生日(2013年9月)にブロガーで独立。以降約5年、プロブロガーとして活動中。


▶︎2015年に電子書籍を毎月1冊発売する「電子書籍マラソン」をした。一覧はこちら
▶︎うち一冊が書籍化
▶︎格安スマホレクイエムBlopedia東京タワーの記事などのコンテンツを作る。
▶︎海外バックパッカーにたまに行く(いまのところ東南アジアメイン)

▶︎フリー素材サイトぱくたそにてフリー素材モデルも務める
▶︎Twitterアカウントはこちら。フォローしてね。
▶︎セミナー講師、コラム執筆音声SNS Himalayaにて配信、youtubeタロ旅出演などいろいろ活動中。
▶︎セミナー、講演、レビュー、スポンサーなどの依頼は問い合わせフォームまでどうぞ。


 

▶︎ふじさわのガッツリプロフィール

▶︎高知県時代

▶︎1987年9月10日 高知県にて3兄弟の末っ子として誕生

「どういう子供時代だった?」
と聞かれると、返事に困ります。

「明るくて、活発で、勉強も運動もけっこうできた」
と言ってしまうと平凡すぎるんですよね。

だからちゃんと説明すると
「明るくて、活発で、勉強も運動もけっこうできたけど、人口4000人の限界集落の、全校生徒40人の小学校に通い、
自動販売機が近所にあると羨ましがられるというくらいのド田舎での幼少期」でした。

もちろんコンビニなんて車がないと行けません。
コーラとかお茶とか売ってる普通の自動販売機が、うちから徒歩5分くらいのところにあるんですが、自動販売機までも車がないと行けないような同級生からは「いつでも飲み物が買えるなんて羨ましい」と言われて、優越感に浸ってました。

雑誌やマンガは、山奥だから届くのが遅く、発売日の2日後くらいにならないと買えませんでした。
発売日の遅れている雑誌を買うためにも、親に相談して車を出してもらわないと行けないので「常に世の中よりも遅れてる」という感覚を持って生きていました。

夜は、200m置きにあるようなポツポツと灯る外灯しかない真っ暗な町なので、テレビの中の「新宿」や「六本木」というワード、ビル群や綺麗なお姉さん、夜でもギラギラに明るい街は、どこか別の世界か、外国か、自分よりも上級の世界のように感じてました。

今でも「都会」「最新」「キラキラ」なことに敏感なのは、こんなド田舎の限界集落で育ったことによる、小さなコンプレックスが関係しているように感じますが、それはブロガーとしてはむしろプラスの要素となっている気がします。

今でも「最新の機種」「新しいサービス」などには気持ちが敏感に反応します。

▶︎剣道部で現実に押し潰された中学時代

中学校時代の写真は一枚も手元にありませんでした。
そのくらい、僕の人生では「中途半端」な期間でした。

所属していたのは剣道部で、キャプテンではあったんですが、ド田舎中学校(全校生徒約100人)だったので、ちょっとした大会に出場しても、あっという間に都会の中学校に負けてしまいます。他校は数十人の部員から選ばれた5人で団体戦に出場してるのに、自分たちは部員数が5人だったりします。
他校には、小学生のころから剣道をしている生徒もいます。
そもそもそんな選択肢も与えられてなかった僕は、なすすべもなく1分程度で2本とられながら(剣道は試合時間3分、2本取られれば試合終了)、

「この世には、決して埋められない差がある」

ということを学びました。
部員数が1桁の剣道部で、剣道歴1〜2年の自分が、部員数が3桁に届きそうな都会の学校の、小学校から5年間剣道をしてる相手に、どうがんばっても、本気を出しても、奇跡が起きても勝てません。
同時に「ド田舎に生まれるということは大きなハンデになる」ということも実感しました。

部活だけじゃなく、人生全般においても、ド田舎に住んでいると可能性がドンドン狭められていくし、見える景色が変わっていってしまうことを実感しました。

僕の母校の中学校は、卒業生の半分ほどがそのまま地元の高校に進学しますが、
僕はもう半分の「高知市内の高校まで進学する組」になった理由は、このような心境からでした。

「もっと大きな世界があるんだから、外に出て行かなきゃ!」という気持ちでした。
同時に「なんとなくパソコンができた方が楽しそう」「ワイシャツをピシッと決めて、オフィスでパソコンをカタカタする仕事をしたい」という気持ちが湧き、高知工業高等専門学校に入学しました。

ド田舎なので、身近にある仕事は土木系、森林系、農業系ばかりだったので、その反動で「自分は、もっと、都会の綺麗なオフィスで、カタカタパソコン仕事するんじゃい!」と思ってました。

ちなみに僕の父は、今も土木系の仕事を続けてますし、現在までこの人口4000人代の町に住んでいる同級生もいます。ド田舎ド田舎とバカにしてますが、実家やその周辺はむしろけっこう好きです。
雄大な大自然に囲まれてのんびり時間を過ごすのは素敵ですが、あと数十年は都会でバリバリやりたい。

自分が田舎に生まれたことで、都会に出ても海外に出ても比較対象となるので、この小さな町に生まれたことはむしろ「よかった」とすら思ってます。

▶︎人生が拓けた高専時代

ここで「高専」というのが何か知らない方もいると思うので、カンタンに「高専(こうせん)」について説明します。
「高専」は「高等専門学校」のことで、高校でも大学でもない、専門学校っぽいけど違う学校の形態です。
僕は「高知工業高等専門学校」通称「高知高専(こうちこうせん)」に入学、卒業しました。

このページの図を使わせてもらってます。
この図の右下の、ムラサキの「高等専門学校」が「高専」です。

高専は中学校を卒業して入学し、5年間通うので、イメージ的には高校っぽいです。
だけど5年間なので、同級生が進路やらなんやら悩む2〜3年時、「まだまだ高専生活はこれから」な状態です。

全国に高校は約5000校、大学は約800校ありますが、高専は57校だけなので、「高専」というもの自体を知らない人がけっこういることに、高専出身者としては驚きです。

高専卒の学歴レベルは、大卒以下、高校以上、短大や専門学校とイコールくらいという認識です。

 

なぜ僕が、こんなマニアックな高専に入学したかというと、中学3年生の時点でかなり学校嫌いだったので「いまから3年間高校に通って、さらに4年間も大学に行くなんて、長すぎる。」
「だけど高卒で社会に出るのは違う気がする」
「高専だと、5年間だから、なんかちょうどいい!

というほんわりしたイメージで決めました。
そして高知高専は「工業学校」で「情報技術」系の授業もあり「パソコンを使えるようになりたい」という欲求にもピッタリな気がしたので、高知高専を選びました。

▶︎800人の人数に圧倒される日々

全校生徒100人、クラスメイト30数人という田舎の中学校から、40人4クラス×5学年=全校生徒800人の高知高専に入学したときは
「こんなに人がいるんだ。すげぇ。ここから俺の人生が始まる。と、心が震えました。

といっても、工業学校なので男女比は9:1。学校は男だらけ。
三人兄弟の末っ子として育ち、小学、中学は普通に過ごしましたが、この高専生活で女の子と触れ合う機会が激減し
「女の子って特別な存在だ」と心に刻まれてしまいました。

ここからモテない人生がスタートしてしまいました。モテないというか、女子との接点が少ない人生です。
女子との交流が少なくなりましたが、この人数の集団に入るのは人生で初めてなので、なにもかもが刺激的でした。

その中でも、全校生徒のうちの約半分の400人が入居する学生寮に入居したことは、人生レベルでも大きな転機となりました。

まず、4人部屋に入居になり、3人の友達ができます。
すぐに隣の部屋の4人とも友達になります。
次の日には、同じ階の4部屋(合計15人)と友達になります。
次の週には別の階の4部屋とも友達になり・・・
と、友達が光の速さで増えていくのです。

中学校時代の友達の人数を、一週間で追い越してしまうほどの勢いで友達ができました。
その友達経由でハンドボール部に所属し、学校、寮、部活の高専生活が始まります。

そんな中、17才で大きな2つの出来事に直面します。

▶︎ラーメン屋の衝撃

高専時代の夏休みは、基本的にハンドボール部の部活漬けでした。
しかし高専2年のとき、夏休み直前の、勝てるはずの試合に敗北したハンドボール部は「夏休みの間、全く部活なし」になりました。

突如ぽっかり空いた40日以上の夏休み、実家に帰ってボーッとしてると、母親から
「知り合いのラーメン屋でバイトでもしてきたら?」
との提案が。

夏休みはなんの予定もなかったので、そのラーメン屋でバイトすることに。
僕の人生初めての就業体験と言えます。

そのラーメン屋はオープンしたばかりだし、ド田舎の店舗だったのでお客さんが少なく、
ボーッと突っ立ってお客さんを待つという時間がかなり多くなりました。

そんな中、キッチンの隅っこに何冊かの本が置かれてあり、そのうちの一冊「思考は現実化する ナポレオン・ヒル」という本のタイトルが、目に飛び込んで来ました。
この本の中は、多くの刺激的な言葉で溢れていました。

 

「人生は、自分の力で自由に生きることができる」

「強く望んだことは必ず現実になる」

「燃え盛るほどの情熱をもってすれば、達成できないことなどこの世にはない。」

 

脳天を貫かれるほどの電撃が走った気分でした。

ド田舎に生まれ、なんとか市内にある大きい学校に入学したものの、将来はできるだけ大企業に入り、よいひとと結婚し、家族と幸せになりたい。そんな「普通の」考え方をしていた僕の頭に、全く異質濃度の高い思考が入り込みました。

その日のラーメン屋のバイトが終わったときに「この本、借りてもいいですか」と店主にお願いし、自宅で貪るように読み進めました。

それまでは、良くも悪くも「普通の人生」「無難な人生」「人並みの人生」「レールの上の人生」を目指して生きていましたが、
頭の中には電撃が走り抜け、毎秒毎秒、価値観が書き換えられていきます。

「強く望みさえすれば、大金持ちにだってなれる。」
「有名人にだってなれる。」
「世界の好きな国で、好きなだけ時間を過ごせる。」

こうして、自己啓発書・ビジネス書にハマりました。
17才でこの衝撃を受けてから、20才で上京するまでの間に、ブックオフで100円で10冊買ってきて、読み終わってはそれらを売り、また10冊買ってくる。ということを続け、3年間で300冊ほどの本を読み終わり、現在でも読書は趣味のひとつです。

▶︎自分の殻を破った「ミッキー」の衝撃

このことを公開するのは、このプロフィールが初めてです。
写真も掲載できたらよかったんですが、どこを探し回ってもなくて残念でした。

「ナポレオン・ヒルの衝撃」と同時期に、僕の人生に大きなインパクトを与えた出来事です。

高専2年の秋ぐらいに、体育祭の「応援団」に入ることになりました。
特に理由はなく、ノリで入ってみたんですが、そのときの自分の組のパフォーマンスは

「全員で女装して『ミッキー』を踊る」

というものでした。
「ミッキー」は、当時流行っていたゴリエのダンスで、こういうやつです。
知ってる人も多いはず。

それまでダンスも女装もしたことない17才の少年が、いきなり
全校生徒の前で、ミニスカ履いてカツラかぶって女装メイクして、おっぱい入れてミッキー踊る
というのは、自分の殻を破る大きなきっかけになりました。

毎日放課後にダンスの練習をして、メンバー全員がバッチリ揃った瞬間の爽快感とか、
恥ずかしがったら逆に恥ずかしいから吹っ切れた方がいいとか、
自分がいくら恥ずかしくても、周りはそうでもないとか、
たくさんのことを学ぶ、よい経験になりました。

 

15才〜20才を過ごした高専では、この「ナポレオン・ヒルとの出会い」と「ミッキーを踊ったこと」そして「初めて大きなコミュニティに入ったこと」により、自分の殻が破れまくり、現在の僕のベースができた時期でした。

これ以外にも高専時代にはいろんなことにチャレンジした、よい時代でした。
・よさこい祭りに参加し、2年連続で自チームの先頭で踊る
・ブレイクダンス挑戦
・バンド(ベース)挑戦
・ほぼ男子校状態だったので、がんばって合コン開いてもらい、なんとか彼女できる
・初体験は青カン
・飲酒運転で捕まる。
・400人の寮の寮長になる。
・ハンドボールがんばるも、結果出ず。
・成績はかなり悪いので、ギリギリで卒業できる。
・文化祭の実行委員になったり、司会をしたりする

文化祭の司会をしたときの衣装

・・・などなど。
心の中では
「一刻も早く東京に行って、刺激的な毎日を過ごしたい!だけどそんなに焦っても仕方ないから、卒業まではこの学校を楽しみ尽くそう!」と思ってました。

そしてこの時期にmixi(ミクシィ)が流行り始めたので、
長文の日記を投稿してコメントをもらうことを楽しんだり、高知県にいながら、東京にいるすごい人とマイミクになれることに興奮していました。

このころから「インターネットに文章を書くと、遠く離れた他人と繋がることだってできるんだ!」と感動を覚えていました。

▶︎東京時代

▶︎20歳で上京・・・1ヶ月で、自己啓発コースに40万円

初めての上京は、東京ではなく埼玉でした。
埼京線で赤羽から4駅ほどの「戸田」という場所に、会社が借りてくれたレオパレスに入居しました。

上京して真っ先にしたことは「mixiで繋がってたスゴイ人に会う」ことでした。
高専時代に浴びるほど読んだ自己啓発書と、溜めに溜め込んできた東京への思いは
「おれは、絶対にビッグになる!」という口癖に全てが現れていました。

お堅い大企業に就職しましたが、気持ちの全ては「ビッグになる」「成功する」ことに向けられていました。

そして「ビッグになりたい!」「成功したい!」などという気持ちをもった人は高知県にはほとんどおらず、mixiで繋がった東京の友達とはその感覚が共有できるはずでした。

上京して3日。
まだ入社式が終わって間もない時期に、そのmixiの知り合いに会いました。

彼の名をKさんとします。
Kさんは当時25才で、僕とKさんは驚くほど気が合いました。
僕は、ついにやってきた東京で、心からの親友に出会えたのが嬉しすぎて、5時間も6時間も話し続けました。
Kさんも同じように、僕との出会いを楽しんでくれているようでした。

Kさんと僕は「将来、絶対に成功しよう!ビッグになろう!」と共鳴していました。

そしてKさんからは、30万円の自己啓発プログラムを薦められました。

そして僕は、初任給全てと、「資格をとる」と親にウソをついて借りた金で、30万円、9日間の自己啓発プログラムを5月のゴールデンウィークに受講しました。
4月に上京してきたので、上京してたった1ヶ月の出来事でした。

この文脈で書くと「上京したばかりの世間知らずの若者が騙された」と思われるかもしれません。
しかし僕自身はこのときに決意して受講してよかったと思うし、大きなリスクではありましたが、大きなリターンを得ることもできた、と思ってます。

▶︎1ヶ月で退社希望。上京する両親。

その自己啓発コースは、自分のマインドブロックを外し、人生をよりコントロールできるようになる、素晴らしい内容でした。
そしてそのコースには続きがあり、約30万円の上級コースが、1ヶ月後にアメリカで行われるのです。

渡航費、ホテル代を含めると合計で50万円を超えます。
僕は迷わず「上級コースも受講しよう。そうすれば自分の人生の成功に、より近づく。」と思いました。

参加した自己啓発コースはゴールデンウィークにあったため、ゴールデンウィーク明けに、真っ先に人事部に「この会社を辞めたいです」と伝えました。初級コース9日間はゴールデンウィークと被ったので参加できましたが、上級コース9日間(移動も含めると11〜12日間)は、有給休暇などを利用しようとも、休みをもらえるものではありませんでした。
だから僕は、なんの迷いもなく会社に辞める旨を伝え、「やっと自分の本当の人生が始まるんだ」と思っていました。

まだ「担当部署」も「配属先」もない新人なので、人事部の方とたくさん話し合いをしましたが、全く噛み合いません。
「とにかく辞めるんです。やりたいことをやるんです。」
しか言わない、高知県から出てきて1ヶ月で初任給全て自己啓発コースにぶっこんだ20才の男を手懐けられる人など、いませんでした。

人事部との話し合いをしたのが金曜日で、「土日でちゃんと考えて、月曜に正式に決めましょう」と言われました。
土日を挟んだところで、より新しい未来へのワクワクが強まるだけだ。
自分には、新しい、キラキラした未来が待ってるんだ。と思っていた矢先の、日曜日です。
外出先で、ケータイが鳴りました。

「いま、家の前まで来てるよ。」

高知県にいるはずの、母親の声でした。父親も一緒とのことです。背筋が凍りました。
人事部が連絡し、両親が急遽、僕の説得をしに埼玉までやって来たのでした。

それから、小さなレオパレスの部屋で、両親との3人での話し合いでした。
新興宗教に洗脳されたと思い込んでる両親と、輝かしい未来しか見えてない若者です。

その話し合いは「辞めるな」「辞める」「絶対辞めるな」「絶対辞めるから」と全くの平行線でしたが、
母親が泣き出し、父親に「どうしても辞めるのなら、父さんを殺してから辞めろ」

と言われた時点で、僕の心が折れ、3人で号泣しました。

会社を辞めて1ヶ月後にアメリカに行く予定でしたが、それを辞めて、会社に残りました。
「最低でも、半年は会社を続ける」ことを、両親と約束しました。

僕の中では「自分の本当にやりたいことを、諦めてしまった」と思う、強烈な失敗経験となりました。

▶︎つまらないつまらない会社員時代

両親との話し合いの夜から、僕の会社員人生が再開しました。
つい先週まで、日本中からワクワクしたひとが集まる自己啓発コースに参加し、来月にはアメリカでさらにパワーアップする予定が、現実には「プログラミングの勉強」「会社の施設訪問」「マナー講習会」などの毎日に逆戻りでした。

入社した会社は「伊藤忠テクノロジー(株)(CTCT)」という、伊藤忠系列のテクノロジー会社でした。
大企業なので、新入社員研修だけで半年くらいの時間をかけていました。
就業期間も短いので「仕事の楽しさ」とかを実感することはほとんどありませんでしたが、ホワイトでよい会社でした。

僕はと言えば、つまらない時間を取り返すかのように、17時半の退社時間がくれば、mixiで見つけた「◯◯勉強会」「◯◯交流会」「◯◯セミナー」に参加する日々でした。
とにかく手当たり次第、目に止まるイベントには参加し、平日5日は全て予定が埋まり、土日もなんらかのイベントに参加しました。

高専時代は「本」を読みまくっていましたが、この時期には「イベント」にひたすら参加することで、自分に刺激を与え続けました。

それらのイベントはどれも素晴らしく、ここでできた友人もたくさんいます。
しかしどれも単発での刺激にしかならず、本当に人生を変えることはできないと本能的に気づいていました。
どんなにイベントでハイになっても、翌日には会社員としてフツウの人生に戻る。

イベントに参加しながら、ひたすら「どうやってビッグになるか」「いかに成功するか」「どうやって金持ちになるか」ばかりを考える日々。
仕事中にはいつも自分の心の中の火が消えていってしまう感覚に怯えていました。

「とにかく!自分の心の中の野心が消えないうちに行動しなければ!」
「この環境にずっといたら、周りと同じ、そこそこの人生で終わってしまう!」
「なんのために高知県から東京に出てきたんだ?フツウで平和な人生なら、高知県でいいじゃないか!」

という危機感を持つ日々でした。
大企業だったので、周りの先輩も同僚も、その人生に満足していました。
しかし僕は、たとえこの会社で出世しようとも、それはビッグとは程遠い、つまらない人生でしかなかったのです。

なにか、有名になって、金持ちになって、成功する人生をつかまねば!
と、毎日を焦りの中で生きていました。

当時のことを書いた記事はこちらです。
戸田駅のラーメン屋を、僕はいつまでも忘れない。

▶︎約束の半年が経ち、両親に黙って退職。渡米。生まれて初めての海外。

2008年11月。
5月に両親と約束した「半年」が経とうとしていた頃、僕は自己啓発コースのオフィスに行き、12月のアメリカの上級コースへの参加申込書を書いていました。

会社を辞め、アメリカに渡って上級コースを受講することには、勇気が要りました。
上級コースに参加すると、その自己啓発コースを他人に教える免許がもらえます。
つまり、「自己啓発コースのインストラクター」を仕事にできる可能性があるのです。

とはいえ、それで生活ができるかなんてわかりません。
初めてのアメリカも少し怖いです。
安定した会社はやはり心地いいし、気心のしれた先輩、同僚もできました。
なんだかんだで大企業です。

この日、僕は泣きながら決意をしました。
ホロリと涙を流した、とかじゃなく、わんわん泣いて、顔がぐしゃぐしゃになって。
涙を拭いたティッシュが山盛りになるくらい泣きました。

「どうせ辞める会社なら、早く辞めないと、辞めることはどんどん難しくなる。」
「このまま会社を続けて、将来、後悔だけはしたくない。」
「この先、どんな未来がやってきても自分で受け止める覚悟があれば大丈夫。」

と、自分の人生を真剣に考えました。
会社や親に相談すると、止められる。
自己啓発コースの友達に相談すると「一緒にアメリカに行こう!」と言われる。

どちらに相談しても意味がないことを悟りました。
誰だって、自分に都合のいい返事しか持ってないんだから。

だから、たった一人で考え、決心をするしかないのだと悟りました。
自分の人生なんだから。

パスポートを取得し、チケットをとって、上級コースの参加料をクレジットカードで支払ったとき、
「あぁ、ついにマトモな人生が終わるんだ。これからはキラキラした世界か、泥水を啜る人生だ」

と、スッキリした気持ちになりました。
泥水を啜る人生であろうと、安定した会社でダラダラ生きるよりはマシだと思ったからです。

会社に辞める旨を伝えるのはメチャクチャ緊張しましたが、前日に死ぬほど泣いてるので怖くありませんでした。
「来週、辞めます」
と11月半ばに伝えた僕に対して、上司たちは必死に止めます。
しかし僕の決意が堅いと知ると
「有給をうまく使って、12月の終わりに辞めることにしろ。そうすれば12月のボーナスがもらえる。どうせ辞めるなら、ボーナスを貰ってから辞めろ。」
と言ってくれた先輩には、今でも感謝しています。

辞めるための手続きを全て終え、最後に会社のビルを出て、二度とこのビルには戻らない、最後の退社をしたあとの新橋の街は(新橋で働いてた)スキップでもしたくなるような気持ちと、未来に対するうっすらとした不安とが同居した気持ちでした。

これから先に苦労は多いだろうけど、大企業に勤めて、心が腐ってゆく日々が終わったことに、満足していました。

▶︎初めてのアメリカ。上級セミナーと、最上級セミナー。

「これが海外か!」
初めてアメリカについたのは、アトランタ空港でした。
アトランタ経由でフロリダへ飛び、9日間の上級セミナーを受講しました。

初回のコースも、上級コースも、内容は最高で、満足度は最高レベルでした。
上級セミナーを受講し終わると、その自己啓発コースを他人に紹介して、仕事にすることができるようになります。

「自分がこれほどいいと思ったものなんだから、他人に薦めるのなんてカンタンだ。
自分が好きなものを紹介して仕事になるなんて、なんていい仕事なんだ。あぁ、会社を辞めてよかった。」

そう思いながら帰国し、戸田のレオパレスを引き払い、セミナーで出会った年上の彼女の世田谷の家に転がり込み、同棲が始まりました。

「このセミナーをみんなに薦めて、お金もたくさん稼いで、仲間をたくさん作るんだ!」

そう思った矢先に「最上級コース」のお知らせが届きました。
最上級コースの受講料は約70万円。13日間。アメリカ。
渡航費、滞在費を合わせると100万円近くなります。

会社に休みを申請する必要もない、仕事もない状態なので、迷わず参加です。
会社員時代に作ったカードが2枚あるので、参加費は一瞬で支払えます。

最上級コースは、いままでよりもさらに自分の潜在能力を引き出し、人生のコントロール力をあげます。
同じくアメリカで開催され、世界中から5000人ほどが参加する会場でセミナーを13日間受講しました。

「自分は、なんて幸せなんだ」
「これから、最高の人生が待ってる」
「世界中に仲間ができた。」

と確信が高まり、帰国しました。

帰国してからは、自己啓発コースの受講者を探す仕事に入ります。
mixiで良さそうなひとと仲良くなり、お茶をし、「こういうコースがあります」と紹介します。
交流会に参加し、知り合った人に紹介します。
mixi自体にも「最高のコースがあります!」という投稿を繰り返します。

そのコースの内容は、当時の僕にとっては最高に素晴らしく、全人類に必要だと本気で感じましたが、30万円のセミナーを、21才の青年から受講しようと思う人は、カンタンには見つかりません。

数ヶ月で、会社のボーナスや、キャッシングで借りた資金も底をつきます。
一緒に暮らしている彼女も、同じ自己啓発コースを受講し、似たような状況でした。

ここから、本当にお金がない時代。アルバイト時代。がスタートします。

▶︎長いアルバイト時代。

ここから、長い長い、本当に長いアルバイト時代が始まります。
年齢で言うと、21才〜25才まで、4年間アルバイトをしました。

どんなバイトをしたかというと、こんな感じです。

・ドコモショップ店員
・海の家
・交通量調査員
・佐川急便の深夜の配送センター
・コールセンター
・データ入力
・披露宴の配膳スタッフ・ケータリングスタッフ
・わたみん家のキッチン
・クレジットカードのキャッチ
・小学校のプール指導員
・冷凍倉庫内作業
・工場
・ライブ会場設営スタッフ
・オフィス家具の配送
・ビールサーバーのひと
・治験
・ラーメン屋さん
・展示会スタッフ
・夏祭りの焼き鳥屋
・引っ越し

それぞれのアルバイトについて詳しく書いた記事はこちらですので、興味ある方はどうぞ。
日雇いバイト時代にやったバイトを20個紹介するよ。

もちろん、アルバイト時代といえ、喜んでアルバイトをしていたわけではありません。
バイトの合間合間、仕事終わりを利用して、人と会っては、自己啓発コースを紹介する毎日です。

やってることはネットワークビジネスの方々と変わらないので、よくそのような人にも遭遇し、バトルをし(実際にはバトルにならず「お互いにがんばりましょう」となります)、相手方のオフィスやセミナーにも遊びに行きました。

できるだけ、コースの紹介活動に時間を割きたいので、アルバイトは週に3日〜4日しかしませんでした。5日も6日もしてしまうと、「本当にやりたいこと=自己啓発コースの紹介」ができなくなってしまうので。

このときに「ガチの貧乏」をたくさん経験しました。

家に帰っても食べるものがなくて、キャベツと小麦粉しかないので、それで「お好み焼きもどき」を彼女が作ってくれた時には、一生この人と一緒にいて、このことを一緒に思い出し笑いしような、と思いました。

ガス料金が払えなくて滞納してたんですが、ある日僕がシャワーを浴びている時に「ピンポーン」と鳴って、「ガス会社ですけど、支払いがないようでしたらガスを止めさせていただきます」と言われ、支払うことができず、自分が浴びているシャワーがだんだん冷たくなっていったことは、二度と経験したくありません。

そんな日々を送りながらも「自分たちが教えている自己啓発コースこそ、世界に必要なんだ!」と燃え続け、世界を平和にするために活動しているんだ!と自分を滾らせる日々は、充実していました。

この時も「いつか自分は成功するんだ!」「いつか金持ちになるんだ!」「こんな底辺を抜け出してやるんだ!」と、燃えたぎる気持ちでいっぱいでした。

話は変わりますが、

僕はよく「会社がつまらないので辞めたいです。」とか「やりたいことをやって自分らしく生きたいです」という相談を受けます。
その時の回答は

「大企業を辞めて、バイトしよう。」

と言っています。
というのも、大企業に勤めている状態と、バイトしてる状態では精神状態が違うからです。

大企業に勤めているときは、他の人生を模索しつつも、どこかで「3年経ったらこのくらいの役職で・・・5年経ったらこのくらい・・・10年後にはこのくらいか・・・」と、計算してしまいます。なんとなく給料の計算もしています。

これによって、自分の中の野心がだんだんと消えていってしまいます。
しかしアルバイトは、基本的に給料は上がらないし、正社員登用は「自由が減る」から拒みます。
その結果、常に「いつか絶対にここを抜け出してやる・・・メラメラ」というエネルギーの高い状態でいられます。5年後も給料なんてほとんど変わりませんから。

つまり、
正社員=だんだん腐ってく(逃げ道がある)
バイト=いつまでも燃え続ける(逃げ道がない)
状態なので「とりあえず、ちゃんとした会社のちゃんとした仕事は辞めて、バイトしよう」と言ってます。

もちろん、
これが100%正しいなんて思ってないし、正社員しながらじょ〜〜ずに副業して、副業の収入が本業を超えたら、本業を辞めるような器用な人もいます。そうです。彼らは器用なんです。

僕は明らかに不器用だったので、会社に勤めながら副業してみるなんてできませんでした。
僕のように不器用なひとは、さっさと会社を辞めて逃げ道を失くすことが、理想の人生への近道ですよ、とお話ししてます。

もっと詳しくこの話を知りたい方は、「2勤5休のススメ」という書籍に詳しく書いています。

アマゾンで「2勤5休のススメ」を見てみる。

▶︎友人からの「起業しよう」。彼女からの「別れよう」。

アルバイト時代は、ほんとに長かったです。
せっかく勇んで出てきた東京で、ビルの合間を作業着を来て時給900円で歩き回っている自分を、認めたくありませんでした。
100万円以上も「理想の人生を生きるための」コースに使ったのに、全く理想の人生を生きていない自分が、嫌でたまりませんでした。

そんなとき、25才で明らかな転機が訪れます。

実は、高専時代に「ビッグになろう!」と思っていたのは僕だけではありませんでした。
寮で隣の部屋だったHという友人も、僕と同じような自己啓発書を僕よりもたくさん読み、高知県から東京までセミナーを受けに行くくらい意識が高かったです。

卒業のときに「どっちがよりビッグになれるか競争だ!」と言って別れたH。
そんな彼から、ふいに電話がかかってきて「一緒に起業しよう!」と声がかかりました。

それまでの僕にとって、仕事とは「アルバイト or 自己啓発コースの紹介」の二択だったため「起業」と言われても、何がなんやらわかりませんでした。
しかし、明らかにそれまでの人生とは違う流れを感じたので、全力でYESを言う構えでした。

それとほぼ同時に、約4年付き合い、同棲していた恋人から「別れよう」という話が出ました。
原因は、あってないようなものでした。年上の彼女は、いやが応でも結婚を意識するし、2人とも職は安定しないし、借金はあるしで、お互いに疲れ切っていました。

僕は彼女と別れ、Hと起業しました。
お互いの友人を2人招き入れ、計4人での起業です。

埼玉県蕨市にワンルーム4万円の部屋を借り、4人で暮らしました。
ロフト付きの部屋だったので、寝るときはロフトに布団を3枚敷いて、お互いの肩が触れ合いながら寝ます。
日中は、部屋に小さな机が4つとパイプ椅子が4つ。それぞれがパソコンに向かって作業をします。

僕とHで「ブログ事業」、あと二人で「転売事業」を行いました。
「ブログ事業」と言っても、実際にはNAVERまとめで報酬をもらいながら、そのノウハウを集めた情報商材を作成し、読者を集めたブログで販売する、情報商材事業でした。

とは言っても、Hも僕もまだまだ未熟。
4ヶ月ほどがんばっても報酬は4000円程度にしかならず、情報商材も完成せず、お互いの方針の違いなどからケンカになり、
会社は空中分解となりました。

4人での共同生活は、たった4ヶ月でした。
このときのことについては、書籍「ブログで食べてけてる」に詳しく書いていますので、よければどうぞ。
また「ブログで食べてけてる」を、僕自身の肉声で読み上げているオーディオブックも、Himalaya(ヒマラヤ)で配信中です。こちらは無料なのでどうぞ。

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▶︎中国でガチの無一文になる。

会社は空中分解しましたが、ブログのネタのために「ちょっとだけバックパッカーしよう」ということになっていて、韓国スタートでバックパックする計画は残っていました。

僕にとってはアメリカ以外の初めての外国。
しかも、セミナーがあるときは多くの日本人で参加しますが、今回は初めてのひとり旅。

ブログネタにする目的でしたが、「とにかく行けるところまでいこう!」
と思って、韓国から中国、ベトナム、タイ、インドくらいまで行けたら最高だな、と思って出発しました。

しかし、どこをどう計算を間違ったのか、上海で所持金は1000円になってしまいました。
このことも、上記の「ブログで食べてけてる」に書いていますが、ちょっとここにも書きますね。

上海で所持金1000円になったのは、忘れもしない2012年の12月31日でした。
大晦日の上海で所持金1000円で、1月4日までそこで生きねばならなかった僕は、とにかく宿を探さねばなりませんでした。

12月の上海は日本と同じように寒く、分厚いコートを着て、重いバックパックを背負い、ニット帽を被り、顔面をマフラーでグルグル巻きにして、目だけ出して、手当たり次第、大小のホテルに入ります。

「チェックアウトのときに支払いをするから、4泊させてくれ!」

と言って周るわけですが、チェックインの時に最低でも1泊分の支払いか、クレジットカード預かりが必要で、僕はそのどちらも無理でした。
中国語で「部屋はありますか?」という意味の「ヨーメイヨー、ファンチェン?」という単語だけ覚えて、あとは英語で力押しです。まず英語が通じないし、僕の英語もグチャグチャだし、条件はハードだしで、どこもとりあってくれません。

10件〜20件は周り、なんとか条件を飲んでくれるホテルを見つけ、なんだかんだで帰国できましたが、今でもこの夜のことを思い出します。
異国で、寒くて、重くて、孤独で、金がなくて、それでも4泊できるホテルを徒歩で探さないといけず、トボトボと歩く・・・。インターネットは、ホテルやマクドナルドのwifiのみ。

間違いなくこの夜は、人生最悪の夜でした。
僕にとっての、いわゆる人生の底荷がこれです。
というものは、空っぽの時にはバランスを崩して転覆してしまいます。

船の一番底に重い荷物を積んでおくと、それが船全体を安定させることになって、バランスが崩れません。
誰の人生にも底荷と呼ばれる経験はあると思いますが、僕にとってはこの上海の夜がそれです。

この日以上に絶望を感じ、自分を呪い、肉体的にも精神的にも苦痛を感じた夜はないので、
これ以降、どんなに辛いことがあっても、ふと「あの夜よりはマシだ」と思えます。

みんなも、自分にとっての「人生の底荷」を持っておくといいかもしれません。

▶︎プロブロガー時代

▶︎9ヶ月でプロブロガーになる。

中国から帰国して、またアルバイトに戻りました。
Hたちと起業している間も、基本的にはアルバイトをしながらでした。
起業ごっこだったので、資本金とか、給料というものは存在しませんでしたから。

恋人と別れ、友人と起業するも失敗し、中国で死にかけた僕は、
「絶対に2013年は勝ちたい!
と、強く思っていました。

このころには、上京当初の「ビッグになりたい!」「成功したい!」という気持ちは弱くなっていて、それよりも「バイトに行きたくない!」「朝、ずっと寝ていたい!」という動機に変化していました。

そのためには、Hとの起業のときに勉強した「ブログ」をがんばってみるのがよさそうだ、という結論になります。
当時は情報商材ビジネスでしたが、よくよく調べると、クリックするだけで10〜20円入る「アドセンス」とか、本とかをリンク経由で買ってもらってお金がもらえる「アフィリエイト」というものがあるようでした。

それまでは「アフィリエイト」は、他人の情報商材を売る方法だと思っていたので、本やケータイ契約を紹介してお金がもらえるのは目から鱗でした。

たまたま当時はドコモショップのアルバイトをしていて、iPhoneを使っていたので、スマホ関係の情報を書くブログ「iPhone愛用中ドコモ店員のブログ」を始めました。

あなたがいま見ているこの「ふじさわブログ」の前身です。このブログのドメインが「iphonedocomoss.com」なのは、「アイフォンドコモショップスタッフ』だからです。

当時のバナーです。

iPhone愛用中ドコモ店員のブログ

当時は本名も顔も出さず、「iPhone愛用中ドコモ店員」を名乗っていました。それがいまや、フリー素材です。ハハ。

当時はauとソフトバンクだけがiPhoneを取り扱っており、「ドコモからiPhoneが発売されるのはいつだ!?」という話題が盛り上がっていました。
そんな時流の中で、「iPhone愛用中ドコモ店員のブログ」はウケました。
数回のバズを経験し、「ドコモ iPhone」で4位になったりしました。
この時の経験から、ブログを急激に成長させるには「時代のトレンド」に乗るのが大事だよ、という話をよくします。もちろん、簡単ではありませんが。

ちなみにバズったのはこの記事です。今でもコメント欄には怨霊が渦巻いています。
僕らは笑顔でゴミを7万円で売っていた。

2013年9月には、アドセンスとアフィリエイト報酬が12万円を超えました。

サラッと書いてますが、はじめてブログからの報酬が確定し、自分の銀行口座に振り込まれたのを確認したときは、泣きました。
今でもハッキリと覚えています。町田駅でした。
町田のヨドバシカメラのバイトに入るため、駅を降りて構内を歩きながら、銀行口座を確認して、金額を確認したとき
「自分の力でお金を稼いだんだぁ・・・」と思い、涙がほろりとしました。
毎日毎日、必死にブログの勉強して、記事を書いていた自分を褒めてやりたい気持ちになりました。

そして、当時の最低生活コストが12万円だったので、単月で12万円を稼いだ時点で「もう二度とバイトはしない!」と決意して、バイトを辞めました。

もっと器用な人なら、働きながら収入をもっと増やして、安定して辞めるんでしょうが、いかんせん不器用というか「仕事したくない」という気持ちが強すぎて、12万円に到達したらソッコーでバイトを辞めました。

しばらくは「iPhone愛用中ドコモ店員」だったのですが、徐々に変化をさせていき、1年後には「ふじさわブログ」となり、本名である「藤沢篤」も全面に出すことになりました。

かくして「プロブロガーふじさわ」が誕生しました。ワーパチパチ!

▶︎「朝寝てられる=幸福」ではなかった。

プロブロガーになってからの人生は、必ずしも「毎日ハッピー!」というわけではありませんでした。
もちろん、毎朝10時まででも12時まででも寝てられるし、夜も2時でも3時でも起きてていいです。

映画もマンガもゲームも、好きなだけ没頭できます。
それはそれで、アルバイトに追われる日々よりはいいかもしれませんが、1週間、誰とも合わず、ほとんど家から出ず(一人暮らし)、パソコンやマンガとだけ向き合うような人生は、幸福とは言い難い日々でした。

ブログからの収益は12万円を下回ることはないものの、20万円程度から動きませんでした。
がんばってブログやアフィリエイトの勉強をするものの、アルバイトをしつつ「絶対に独立してやる!」という燃え滾るようなエネルギーは、もはや僕の中にはありませんでした。

そんなにがんばらなくても、家でずーっと寝てられる。ゲームをしてられる人生は手に入ってるんだから、がんばる必要ないじゃーん。

もちろんお金は欲しいのですが、手を動かすほどの強烈な動機が、自分の中に芽生えてきませんでした。
この時点で、まだ借金は100万円ほどあるのに。

▶︎海の家、東南アジアバックパッカー

プロブロガーになって、半年ほどダラけ続けたある日、
「いまこそ、夢を叶えるときだ!」
と思い立ち、東南アジアバックパッカーの旅を計画しました。

資金に余裕を持たせる&借金返済のため、一度はやってみたかった「海の家のバイト」を、3ヶ月住み込みで行いました。

太陽の日差しと砂浜、酔っ払いと生ビールに囲まれた海岸での仕事は、ブロガー活動よりも「生きてる」って感じがしました。
ちなみに海の家バイトはこれから3年連続で行い、3年目のある日、店長と取っ組み合いのケンカをしかけたところでお互いを店員に抑えられ、そのままクビになって終わりました。

ちなみに海の家バイトと東南アジアバックパッカーの間、2014年9月19日はiPhone6の発売日で、当時はまだまだガジェットブロガーだったので、記事のネタのために表参道のAppleストアに徹夜で並んで、発売直後にiPhone6を購入しました。

iPhone6を手に入れて約2週間後。
夢だった「東南アジアバックパッカーの旅」に出ました。

ジンベイザメ オスロブ セブ

フィリピン・セブ島のオスロブでジンベエザメと。

インド・バラナシで日本人友達あいかと。

カンボジアの新しい世界遺産、プレアビヒアで旅仲間と。

タイ、ラオス、ベトナム、カンボジア、フィリピン、シンガポール、マレーシア、インドの8カ国を、半年かけて周りました。
フィリピンで1ヶ月の語学留学もして、友達と話す程度なら英語が話せるようになりました。

 

当時の半年のバックパッカー経験は、3冊の電子書籍「だまされたシリーズ」に書いています。
完全ノンフィクション紀行本をどうぞ。

実はこの時、youtubeにもチャレンジしました。

いくつかの旅の動画をアップしてがんばってたので、ぜひ動画から旅の雰囲気を感じ取ってくれれば嬉しいです。

6ヶ月の東南アジア旅は、最高中の最高でした。

見知らぬ街の空気を吸い、暖かい風を頬で感じ、
刺激的な香りを嗅ぐ。
聞いたことのない言語に、読み方もわからない通貨、
乗り方のわからないバス。
ゲストハウスで出会う旅人と翌日には別れ、
言葉の通じない現地人と笑顔を交わす。

海外を、たった一人で心のままに旅をすることは、こんなにも心を豊かにし、人生の見え方を変えてくれるんだ、と、毎日感動しっぱなしでした。

この期間もブログの収入は15〜20万円程度でした。
貯金は0だったので、毎月15日や25日前には現金がなくなり、振込日前には
「ヤバイ!ヤバイ!ヤバイ!・・・(振り込まれる)ふ〜っ。セーフ。」
というのをフィリピンやインドで行う日々でした。今もあまり変わりませんが。

夢は「世界一周」になり、この収入ではアメリカやヨーロッパを満足に旅できないので、ブログやアフィリエイトの勉強をし、収入をアップさせるために、帰国することにしました。

東京に近くて安い部屋を探し、世田谷区の隣の、狛江市という場所に部屋を借りました。

▶︎ここで一回、ブログ収入が3万円になってバイトした。

このことはほとんど全くどこにも書いてないし、なんなら非公開だったんですが、せっかくなので書いてしまいます。
ブロガーで独立してから、どんなに収益が少なくても12万円を切ることはなかったんですが、東南アジア帰国後、ダラダラと仕事をして、しかも事故物件に住んでいて(関係ない)、運気が下がったのか、このブログのアクセス、収益ともにダダ下がりして、収益が3万円になってしまいました。

マジで生活できなくなったので、コールセンターのバイトを半年だけしましたが、電子書籍マラソンのうち、フジザップがヒットしたのを皮切りに収益が立ち直り、コールセンターバイトを辞めることができました。

これ以降は、アルバイトは全くしていません。

事故物件に関する記事はこちら。
事故物件に住んでみた話をしよう。東京の狛江市に賃貸で1年間住んだ話。

▶︎電子書籍マラソン開始、書籍発売。

日本に帰ってきてからの僕は、東南アジアの旅のことを思い出していました。

「日本にいては、あれほど濃密な日々を送るのは難しい」

と思い、人生の濃度を高めるための方法を考えました。
その結果が「毎月一冊、電子書籍を発売すること」でした。

ブログのアクセスアップや、アフィリエイトで収益アップもがんばろうとしましたが、いまいちやる気が起きないですが「自分の経験を電子書籍にすること」にはやる気が出たのです。

2016年1月1日に「ブログで食べてけてる」を発売し、
2016年12月1日に「これが僕のド真ん中」を発売し、連続12冊発売を達成しました。%e9%9b%bb%e5%ad%90%e6%9b%b8%e7%b1%8d%e8%a1%a8%e7%b4%99これらほとんどはアマゾンの藤沢篤のページから購入できます。
一部はfastbookというサイトで購入できます。

▶︎初の書籍発売決定。

たくさん発売した電子書籍のうちの一冊
「勝手にコミットしろ。糖質制限フジザップ」が、待望の書籍化されました。

さっきは「世界一周するのが夢」と書きましたが、「本を発売する」ことも大きな夢のひとつだったので、出版が決まった時は、泣きました。

出版社さんと打ち合わせをして「自分の本が発売される」と決定して、平気な顔をして出版社を出て、帰りの電車でブワアアァァッと感情が湧き上がり、これまで東京に出てきてがんばった日々が思い出されて、たまらない幸福感での涙でした。

発売後は「本を売るためには、本屋にPOPを置いて回るのがいい!」
と言われたので、たくさんの本屋さんに挨拶して、POPを書かせていただきました。
ありがたいことに「ライザップ本2冊」の隣に配置していただくことも多く、よい書店員さんばかりでした。

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2本立てのDVDも発売されました。
みなさん、ぜひ一緒に腹筋バキバキになりましょう。

▶︎「イケダハヤト」さんに高知で会う

このころには、まだ一人も「ブロガー友達」はいなかったのですが、さすがにトップブロガーである「イケダハヤト」さんの存在は知っていました。

僕の実家が高知県で、イケハヤさんも高知県に引っ越したばかりのころで、まだ山奥じゃなく高知市の近くでした。
「僕もブログで稼いでるんです!」と連絡をして、お会いしていただくことができました。

ちなみにこの頃は「仮想通貨うんぬん」なんてもちろん言ってなくて、
「電子書籍を紹介すると儲かりますよ!」とずっと言ってました。

イケハヤさんに会った時の記事はこちら。
「まだ東京で消耗してるわ。」高知でプロブロガーのイケダハヤトさんに会ったよ。

▶︎神奈川県平塚市に引っ越し

少し時系列がグチャグチャしますが、事故物件に住み、収益が減り、アルバイトをしていたころ、当時付き合っていた彼女に振られました。付き合って9ヶ月くらいでした。

かなりメンタルがやられてしまい、もはや「プロブロガー」ではなくただの「フリーター」になってしまった頃、神奈川県平塚市に住む友人宅を訪れて、彼らのホームページを作る機会がありました。

実は「海沿いに住む」というのは昔からの夢で(夢が多いな)、平塚市は海に面しています。
そして、そこに住む友人は、ブロガーではないものの、アーティストという形で、自分と似た働き方をしていました。

基本的に自宅が作業場で、ひたすら自分の作品を作る。
このライフスタイルの人はそうそういません。

東南アジアから帰ってきてからも「自宅で6日間作業し、週末に1日だけ彼女がくる」ような生活をしていた僕は、「幸福」とは程遠い生活を送っていました。

もっともっと、アクティブな人間関係が必要だったのです。
とはいっても、人間なら誰でも良いわけではなく、お互いに刺激を与え合え、ライフスタイル、ライフサイクルの似通った、尊敬し合える友人と親密な関係を気づきたかったのです。

平塚市には、そんな仲間が数人住んでいました。

左から
世界一周ダンサーの中込くん

僕、
画家の大和田いずみさん、
彫金師の秋濱さん
革作家の和也

2018年6月現在も平塚に住んでいるのは「海が近いから」と「彼らがいるから」です。
それぞれに仕事をして、気が向いたときにランチしたり、夕食を食べたり、遊んだりする。

ブロガーの仕事は、自宅で引きこもってメンタルが不健康になりがちなので、平塚に引っ越したのは大きな正解でした。

ところで、
いきなり平塚に引っ越したことを書きましたが、僕、「人生の成功や幸福には『住む場所』がめちゃくちゃ大切や!」
という持論を持っております。

成功や幸福のためにする努力にはいろんな種類がありますが、住む場所を変えることでいろんなことが加速します。
具体的には
・自分が大好きな人、憧れのひとがいる地域にすむ(できるだけ頻繁に会える距離)
・都会か田舎かの選択は大事。(スローライフにしたいなら迷わず田舎。キラキラライフは都会。あとは海なのか山なのか)
・海外も積極的に視野に入れるべき。
などです。

住む地域を選ぶこと。すなわち「引っ越し」こそ、目標達成のためのスキルであるにも関わらず、その重要度は軽視されているように感じたので、電子書籍を書いたほどです。
「私に必要なのは、引っ越しだ!」と思った方はぜひどうぞ。

タイトルはズバリ
「あのさ、いつまでもそうやってウジウジ悩んでないでさ、さっさと引っ越しすればいいじゃん!」です。

あのさ、いつまでもそうやってウジウジ悩んでないでさ、さっさと引っ越しすればいいじゃん!を、アマゾンで見る。

▶︎田舎フリーランス養成講座の講師をする

2016年から2017年にかけて、急速に「ブロガー友達」が増えました。
ブログの独立が2013年なので、3年近くも「たった一人でプロブロガー」をしてきた僕にとって、これは大きな出来事です。

一人の間、ブログの内容とか書き方とかについて話せるリアルな友達は一人もいませんでした。
しかし2016年にタロログのたろうさんと知り合い、カルロスくんを紹介してもらい、田舎フリーランス養成講座を開催している千葉県のコワーキングスペース「まるも」に足を運びました。

そこで多くのブロガー仲間、フリーランス仲間と出会い、少しずつ世界が広がっていきます。
そして「田舎フリーランス養成講座」の講師を3回務めました。この講座は一回1ヶ月なので、トータルで3ヶ月以上はまるもに滞在していたことになります。

まるも以外でも、2016年くらいから、人前で話す仕事をちょこちょことするようになりました。

▶︎世界一周チャレンジ

2017年10月から、長年の夢だった「世界一周の旅」に出発しました。
ちなみに、諸々の収入は月20〜30万円程度で、それほど変化していません。

フィリピンでの語学留学からスタートし、ノマドワーカーとして東南アジアを周り、ハワイまで行きましたが
「あんまり楽しくないな」と思って、2018年2月に帰国しました。

フィリピン、タイ、シンガポール、インドネシア、ハワイまで行き、カナダ行きのチケットを取ってたのですが破棄し、日本に戻りました。

360度カメラでガンガン動画をバズらせようと思ったのですがうまくいかなかったこともありましたし、
旅先でもほとんどの時間を「ブログ」「SNS」「ゲーム」「映画」「電子書籍」で過ごしていて、
海外関係なくネットに触れる時間が圧倒的に多くて
日本におった方がええやん」と思ったからです。

のんびりと世界を旅するより、日本で自分の力を試してみたい!
激動するSNS界、仮想通貨界の波に乗りたい!と思いました。

世界一周は一生の夢だったのですが、チャレンジすることで現実との違いを感じることができて「気が済んだ」と言えました。

当時の記事はこちらです。
いまは胸を張って「気が済んだ」と言える。【帰国した】

▶︎プロゲーマー宣言→撤回

帰国したのは「日本で、SNSの力を使ってもっと有名になりたい!何者かになりたい!」という願望だったのですが、その方向性として「プロゲーマー×プロブロガー」を選びました。

5年近くプレイしてる「クラッシュ・オブ・クラン」というゲームのプロゲーマーになる宣言をして、少しだけ話題になりましたが、2ヶ月ほどして諸々に無理が生じ、諦めました。

当時の記事はこちら
「クラクラのプロゲーマーになります」宣言から一ヶ月半。どうなったか全部書くよ。

▶︎「イケメンは、つくれる」をキャッチフレーズに、フンドシのヒモを締め直す。

2018年6月。
この時点で「プロブロガー5年目。世界一周リタイヤ。プロゲーマー撤回」という、かなりブレブレな状態でした。
ブログの内容も、ここまでで「iPhoneなどガジェット系、格安スマホ、ダイエット、英語、筋トレ、旅、ゲーム、自己啓発・・・・」
などなど、バラバラでとっ散らかってきてます。

そんな自分を隠すかのように、自分のブロガーとしての考え方があまりにも老害化してるというか、新しいものを受け入れる柔軟なスペースが不足している感じがしていました。
新しく出てくるブロガーやフリーランス、新しいウェブサービス、価値観についていけない自分を認めざるを得ませんでした。

しかし、たった5年のキャリアなんてこれから何十年と続く人生においては大したことありません。
とにかく、ガチガチに固まった脳みそのリハビリをせねば。
そのために、抵抗のあったオンラインサロンであるヤるサロン伸びシロサロンにも入会し、
気持ちのリハビリを始めました。

その一環として、とっちらかったふじさわブログのコンテンツ、僕が発信する情報。
それら全てを「イケメンは、つくれる。」
というキャッチフレーズでまとめ上げ、再出発しようと思いました。

僕が世の中に提供できる情報で、他のひとがあんまり提供してなくて、かつ、必要とされるもの。
そのぼんやりとしたイメージを言語化したのが「イケメンは、つくれる。」です。

イケメンになるには、最初は髪型やファッション、体型などの外見から入ります。
そこから、同性との接し方、異性との接し方を学びます。
そして、最後には「人間としてイケメン」になるために、生き方、働き方、稼ぎ方のジャンルにまで手を伸ばします。
自分の存在を内側から認められ、自尊心と自信を持って生きる「イケメン」は、生まれ持ったものでなく、つくれるものなのです。

それら全てにおいて、僕が手助けできるひとに対してコンテンツを発信していこうと思っています。
もちろん、それ以外のブロガー活動も多くするのですが、
活動の根底のコンセプトを決めたことで、生まれ変わったような気持ちです。

▶︎今後のことと、雑記。

▶︎今後の活動

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紙書籍出版以降、セミナー活動、ラジオ出演、記事執筆依頼など、他人と関わりながらする仕事が増えました。
大手フリー素材サイト「ぱくたそ」で、フリー素材としての活動もしています。

僕の活動の根源は

「自分の影響を受けた人の人生が良くなってほしい」
「そのためには、インターネット上に文章を置いておくのが最も効率が良い」

という考えに沿っていますので、そのためのことをし続けます。

今後は
「アフィリエイトの収入アップ(100万円/月目指す)」
「『イケメンはつくれる』をコンセプトに、ブサメンがイケメンになる手助けをする」

という目標でやっていきたいと思いますので、よろしくお願いします。

▶︎各種ご依頼・SNSでつながろう。

●講演依頼、セミナー依頼を受け付けております。
価格等は応相談です。

その他、問い合わせは全て問い合わせフォームあるいは各種SNSからどうぞ。
メールアドレスはkinsune@gmail.comです。

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もうちょっと書きたいことがあるので書いておきます。

▶︎レーシックのこと

2008年6月に、レーシック手術を受けました。
僕の個人的な経験では、「人生でも最高にいいお金の使い方だった」と思ってます。

時系列で言うと、両親と泣きながら話し合って、半年間は会社員を続けると決めた直後のことでしたね。
手術から10年経つんですが、相変わらず1.2ほどを維持してて最高です。

レーシック手術に関してはこちらの記事に詳しく書いてある&割引クーポンもあるのでどうぞ。
品川近視クリニック・レーシック手術体験談。紹介クーポンあり!「8年経っても絶好調」

▶︎女の子のこと

本文でも少し触れましたが、3兄弟の末っ子として生まれ、母親以外、女性のいない家で育ちました。
小学、中学は共学でしたが、一番大事な高専時代(15〜20才)の間、男子9割の環境で育ちました。

これによって、まだまだ自分の根っこに
「女の子って特別なもの」「女の子は珍しい」という感覚が根付いている感じがします。

とはいえ、21才から4年間の同棲経験などでかなり解消されたし、
2014年には藤沢数希さんの「恋愛工学」にも出会います。

それ以降は恋愛工学信者として生きているので、かなり女性への特別感は減りましたが、
僕が「イケメンは、つくれる」と過剰にイケメンを前面に出すのは、心の奥底にまだ生きてる童貞のせいかもしれません。

▶︎ゲームのこと

本文にはほとんど書いてませんが、小さい頃からゲームに触れながら育ってきました。
小学生のときのは「ゲーム雑誌で新作ゲームのレビューをするひと」でした。

「新しく発売されるゲームを全部やって、その感想を書く仕事なんて最高すぎる!」と思ってました。
2018年にプロゲーマーを目指したのは、そういう部分があるような気もします。

これまでにドはまりした有名ゲームは「ドラクエ3、4、6」「ポケモン金・銀」「マリオカート」「ゴールデンアイ」「不思議のダンジョン 風来のシレン」「ゼルダの伝説 時のオカリナ、ムジュラの仮面」などです。

25才くらいで、10年ぶりくらいに「パズドラ」にハマリ、18時間プレイして死にかけて以来、スマホゲームにも積極的に手を出しています。
その時の記事はこちら。
18時間熱中した話。【パズドラと僕・前編】

2018年6月現在では「クラッシュ・オブ・クラン」と「荒野行動」をほぼ毎日開いています。
クラッシュ・オブ・クランに関する記事はこちら
荒野行動では「荒野のふじさわ」という名前でプレイしてます。フレンド申請どうぞ。

これからeSports業界は盛り上がるので、またゲームを絡めたなにかをやりたい気持ちはあります。

▶︎ツイートしてくれると必ず返します。

ということで、ほんとのほんとに
ここまで全部読んでくれた方は、マイメンなので、
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長いプロフィールを最後まで読んでくれてほんとにありがとうございます!
嬉しいです!今後も「プロブロガーふじさわ」をよろしくお願いします。

さらに僕のことを知りたい方は、電子書籍などをどうぞ。

▶︎友人との起業〜中国旅、ブロガーで独立までを書いた小説
ブログで食べてけてる(電子書籍、書籍)
ブログで食べてけてる(本人吹き込みオーディオブック 無料)

▶︎働き方、アルバイトや会社員からの脱却ノウハウ
2勤5休のススメ

▶︎6ヶ月の東南アジア旅で起こったたくさんのトラブル
東南アジアでだまされた
インドでだまされた
タイでオカマにだまされた

▶︎「イケメンは、つくれる。」の元ネタである、初のフィクション小説
イケメンは、つくれる。
マッチングアプリ

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詳しくはこちらの記事をどうぞ。